100%ママというタイトル

娘が生まれたのはたぶん14年くらい前(今私は何歳だろう?)。娘の成長の記録をつけようと思う。あんなにちいさかった娘が、こんなに大きくなって。そして今また成長を遂げようとしている。

日々心の中に書き留めているが、実際に文章にして残したいと思うようになった。娘は少し発達に課題がある。常に前向きで明るく、よく笑い、よく泣き、よく怒り、実に美しい生き物だと思う。自身で成長が遅い、なかなか思うように成長できないことをよくわかっており、ひたむきに努力する。「これをやれば、もう少しよくなるらしいよ?」と聞けば、直ちに「じゃ、やってみよう!」と苦手な分野でも、恐ろしげなことでも、労を厭わず取り組む。我が子ながら尊敬の眼差しを向けずにいられないし、見ていて清々しい。

本人がいちばん、その不具合がどんなに迷惑なものか、わかっているのかもしれない。それはそうだ。どんなに努力しても、期待したほどスムースにできるようにならないのだし、一日中チグハグした動きだなんて、疲れるだろう。

うまくいかないことを努力するより、うまくいくための道を作る努力をするのなら、その方が建設的だ。なんでもやるという気にもなる。

失敗するかもしれない可能性を心配して動けなくなるより、成功する可能性を取れるのは、実に幸せなことだと思う。

こどもが生まれるとわかった時、わたしは三十をいくつか超えていた。昔なら珍しくもないそうだが、現代では高齢出産に数えられる。さして体も鍛えておらず、健康とは無縁の生活をしていた私は出産を恐れ、完璧なママになろうと決意!

お産はナチュラルバースに配慮のある場所を探し、水中出産を選んだ。食事に気を配り、早朝から朝市に駆けつけ、居並ぶ先輩マダム達から野菜を奪い、キッチンガーデンにも取り組んだ。

生まれたばかりの頃は母乳をうまく飲めずに泣き、一時混合乳にしていたこともあったが母乳育児の会にも入って活動した。リーダー養成講座を取り、ペアレントトレーニングの研修も受けた(これは現在まで素晴らしい恩恵をもたらしている)。

 

ところで、障害を持つこどもの親は、いつかこどもが犯罪者になるのではないか?という不安を抱えている人が多い。乱暴な男の子の親は大抵心配している。毎日誰かを怪我させるんじゃないか?って。小さい体でも、相手を押して突き飛ばせば、打ち所が悪ければ大怪我をする。発達に課題のある子は、力の加減というものができない子が多い。そのまま大人になったら、どうしようと、お母様がたは心配している。多くの場合、男の子だけれど。

そして、多動で広い興味を持つADHDは好きなことには過集中するし、静的なイメージのASDも過集中する。二者はやりはじめて乗ってきた仕事を途中でやめない(やめることができない)。その集中力や拘りは、社会の中でどう現れるかは人によって違う。どうして違うかは、明確な理由があるかもしれない。

その能力が、犯罪者というベクトルへ向かうか、社会貢献というベクトルへ向かうか。極端だけど、私は二つに一つのように感じている。可もなく不可も無いという中間世界に生きることは、私たちには難しいように思う。たとえば「ひきこもり」という症状があるが、これは私たちに中間世界に生きることを求めた結果なんじゃないか、とすら思う。

中間というベクトルのない場所では生きられない。

どちらのベクトルに向かうか。脳に腫瘍ができたことで、性格が一変するという説もある。脳内物質の変化で気質が変わるという説。犯罪と脳内物質には関係があるとも言われる。

それで。親にできることはそう多くない。犯罪か社会貢献のベクトルに向かうかは、安心して育つことができたかどうかというのも、大きな決定要因ではないだろうか。親の責任としては、そこにさえ注力しさえすれば、それでいいのではないか?発達障害の分類よりも、そういったことを考えたいと思うこのごろ。

あとは本人がどのような道を行くかであり、それがどのような選択であれ(極端に言えば犯罪者の道であれ)、本人の選んだ道であるならば、尊重し、愛し続ければいいのではないか。そんな風に考えていた。

そうして____肝心な発達の課題……いくつか不器用なところがあっても、才能をみつけて伸ばしてやればいい。得意な分野を充実させるうちにできなかったことも、できるようになる。自身を振り返ってもほんとうにそうだと思うし、実際にわたしたちもそうしている。

精神論的な部分を整理した後に気づいたのは、ある種の不器用さは、命取りになるということだ。台所で一緒に並ぶと、娘は私にたびたび足を踏まれる。近づいているのだから、一歩足を引くだろうと、そういう気持ちでこちらはいるのだが、避けない。

体は引くけど、足は動いていない。なにか突発的な気配や動きを感じてさっと動く。これができないと、とってもまずい。反射的に反応できずに棒立ちになるということは、車や電車はもちろん、自転車にだって轢かれかねない。

この道はどこへ続いていくのだろうか。きっと素敵な道に違いない。今はそう思える。

 

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