「お母さんの腹具合によっちゃあ、たらふく食べられるときもあるさ」

フランソワ・ルピック(にんじん)の言葉をいづみさんの虐待家庭の話で思い出してしまう。

ジュール・ルナールの自伝的小説。若いころ、子供がいないときに読んでいた時は「にんじん」が大好きだった。皮肉がきいていてそれでいてユーモラス、だとか説明にはあるけれど、本当にユーモラスなのか。でも確かに面白くて、なぜか大好きで、悲劇とは思わず読んでいた。悲劇は人は望まないよね。

母親がヒステリックで狂ったようなおばちゃんで、おねしょの治らないにんじんにおしっこ入りだと言ってスープを飲ませたりもするその名作なんだけれど、息子が生まれてよく思うことは、にんじんが息子そっくりだということ。

にんじんが新しいメイドに大人びた口調で説明するのも、家族で過ごすときにする無駄な動きも思考も、ジョークがわからないところも、そこでそれを言っちゃあだめよ、というところで口にしてしまう真実も。勉強ができるようで出来ないところも。世間を彼の兄弟のように知らないところも。

ならば、彼も発達になんらか抱えていたのか?ということを言いたいのではなく単に似ている、それだけなのだけど。そんな勝手な考えを述べるのは、「じゃあ、にんじんの母親に自分が似ているのか」ということ。昔はにんじんに親近感を、作品に親近感を覚えていた。にんじんの両親はどうなのか。病気を苦にして猟銃自殺した父親は妻を愛していなかった。でも、病気を苦にして自殺を図るのは、わからなくもない。痛みや、恐怖は精神にいろいろ影響を及ぼすと思うから。

乞食やメイドをうまいこと、情け容赦なく追い出し、子供を差別して育てていた母親は、「私」なのだろうか。

にんじんにいつも怒っているのは、私自身なのか。つまらないことを考える。映画を見たら。自分に似た人以外にもヒロインに感情移入するものだから(ヒロインがマーゴット・ロビーとかだと、諦めて脇役に感情移入するくらいの分別はあるけど)その延長かしら?でも、最近はよく考えてしまう。

名付け親のおじさんがにんじんに親切であり、彼と離れる時間があったのが親子でほっとする時間だったのでは?にんじんは寄宿舎に入っていなかった?にんじんはそれでも、もう少しの時間でも、母親に会いたくない、それどころか嫌いだった。離れてるのに、彼女はにんじんにやさしくなれなかったのか?うちの息子は?私に対してどんな感情を抱いてる?

真相は井戸の中、かしら。彼女は「不注意」で落ちたのだろうか。それはともかく、ルナールの物や人、動物に対する描写って素敵だ。

クローズで子育てをしつつ、(医師も「傾向がある」と話し、簡単に診断を取るのは、と話していた。あたたかく子供を包んで育ててあげましょう、と。本当に社会で困ったときに取るべきものと言っていた。息子は模倣ができる。本人の気持ちは別として、学校に紛れ込んでいる。毎日友達と遊びにいき、宿題をこなし元気よく過ごしている。私は何が不満なんだ?起きてもいない二次障害?起きつつある、二次障害?)私は、にんじんの母親になっていないかとよく自身に問うことがある。

もちろん、自分がメロンを好きじゃないからって、(スイカだった?)息子に食べさせないことも排泄物をどうこうしようとはしない。でも、極端な考えの息子に、人を振り回す息子につかれることがある。それは彼じゃなく、自身の問題なのかな?

でも、偏食でメロンもスイカも息子は食べない。ちなみに私も好んでは食べない。打倒小麦、と思いつつもイライラするとクッキーをやけ食いしてしまう。

ともかく月曜からは始業式。疲れた頭の日曜日。

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